校長ブログ 卒業式の式辞
今年の卒業式は、長田弘さんの詩「空の下」(『一日の終わりの詩集』、ハルキ文庫、角川春樹事務所、2021年所収)を紹介しながら、式辞を贈りました。ぜひ、詩そのものも見てもらった上で、私の式辞を読んでもらえれば嬉しいです。
春本番を感じられる今日この日、3年生のみなさんはこの和光中学校を卒業します。卒業生の皆さん、卒業おめでとう。そして、お子さんを今日まで見守ってきた保護者の皆さま、この3年間での成長を感じておられることと思います。心よりお祝い申し上げます。
さて、今日は一つの詩を手がかりにして、話をしてみたい、と思います。
(中略)
冒頭、「黙る そして静けさを集める こころの籠を静けさで一杯にする そうやって時間をきれいにする」とあります。静けさで時間をきれいにする、という感覚、分かるでしょうか。何かに向きあうためには、集中しているということが必要なのだと思います。だから、集会や授業の場ではそうしたことが求められるのだと思います。
途中、「時間の速度をゆっくりにするのだ。考えるとはゆっくりした時間をいま、ここにつくりだすということだ」とあります。私は、本当にこの通りだな、と思います。様々なことに追われている中では、何かを考えることはできない。あえて空いている時間をつくり、前にあるように「静けさを集めて時間をきれいにする」ことが、考えるためには大切なのです。
そして、「独りでいることができなくてはいけない」という句が5回も繰り返されていることが目立ちます。それも、ひとりという言葉には、孤独の独にあたる「独り」という字があてられています。和光では、よく「人と人のつながりを大切にする」、「対話」ということが言われます。「つながること」と「独りでいること」は、一見逆のことのようにも思えますが、私にはつながっているようにも感じられます。ここで言う「独りでいること」とは、自分に向き合うことだと私は思います。つながると言っても、自分というものがなく周りに合わせているだけなら、その関係はスカスカなものではないでしょうか。「人と人がつながる」とか、「対話」というものは、自分の考えを主体的に持つ個と個が向かいあうことに意味があるのではないでしょうか。そして、個を確立するためには「独りでいること」により、自分が何なのか、何を考えているのか、を知ることが必要だと思います。
さて、最後のほうに「この世はうつくしいとは言えないかもしれない」とあります。砲弾やミサイルが突然頭上から落ちてきて、自分や家族や友人が突然死んでしまう世の中は全くうつくしくありません。そういう時、人は「祈る」のかもしれません。現実の理不尽がどうしようもない時、自分や仲間がいくらあがいても現実が変わらない時、ひとは「何とかしてくれ」という気持ちで祈らざるを得ないのではないでしょうか。おそらく、私が今言った「祈る」ということと、長田さんの言う「祈る」ということは違うのですが、今、2026年3月の現実を考えた時、うつくしくない世の中での祈りという点は、つけ加えておかなくてはいけない、と思いました。
今日は、ひととひとのつながり、その前提としての自分という話をしました。この3月で和光から離れる人、和光高校に進む人。どのような道を進むのであれ、これから新しい出会いが待っています。ひとの成長には、自分と向き合うこと、そして、他者との関りの両方が必要だと思います。4月からの新しい生活の中で、一人ひとりが新しい自分に出会って成長していって欲しいと思っています。
改めて、卒業おめでとうございます。真っ当な世の中にするために、どうか、力を貸してください。
2026年3月14日
和光中学校校長 橋本 暁
式辞は以上なのですが、最後の「祈り」ということについて、補足させてもらえれば、と思います。実は、ここでは「存在しない神に祈る」というフレーズを私は紹介したかったのでした。このフレーズは、田川建三さんという宗教学者(昨年の2月に亡くなられています)のエッセイのタイトルになっているものです(田川建三「存在しない神に祈る」『批判的主体の形成』洋泉社,2009)。田川さんのこの文章を若い時に呼んだ時、様々なことを考えさせられました。現実があまりに酷く、その現実を変えようとあらがっても、どうしようもない時に、人は祈る、だから祈りはどこまでいってもむなしいのだが、祈らざるを得ない出発点、すなわち世の中を変えていこうとする意志をどう持続していくか、という趣旨のものです。ガザで、ウクライナで、そしてイランで人々が理不尽に殺されてている世界は「うつくしいとは言えない」世の中でしょう。そういう状況に絶望してしまいそうになるけれど、いろいろ矛盾のある中、どうしたら真っ当な「うつくしい」世の中にしていけるか、を若い日の私は考えたのでした。